五十嵐太郎さんを囲み建築あそび 2001年12月8日 快晴
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その2   天理教 1  
◎スライド1

           

これは天理市です。奈良県にある天理市という・・天理教の町なんですけど、駅のホームから見た写真で。向こうに屋根が有ってですね、三角形の屋根がりズミカルに飛び出している建物が見えるとおもうんですか、アレが天理教の建築です。
 ちょうど95年にたまたま「10+1」という建築評論雑誌の仕事で「都市のタイポロジー」ていうのを特集したんですね・・その時に「宗教都市のことを書いてみないかていうんで、天理市に行ってですね・・調べたのが実は大きな切っ掛けで。
 天理市というのは天理教だから名前が付いてる。天理市だから天理教になったんのではなくて・・。
 今非常に大きな都市計画のプロジェクトが40年ぐらい前から動いていてですね、向こうに見える巨大な建物も、都市計画のそのプロジェクトの一環になってます

◎スライド2

             

これがですね、天理市の・・歩いて15分ぐらい、駅から行くと有る、神殿の南側の礼拝堂の入り口なんですけれども・・。えーとこの建物を中心にしてさっきの(スライド1の建築都市計画が作られている。これは今から話すんですけれども、調べていくと非常に面白いことが分かったんです。

 同時に疑問に思ったのはこんなに面白い建築を、建築史という学問の分野では誰一人ちゃんと研究したことが今までなかった、ということがまた実は驚きだったンですよね。

 単純に宗教建築の研究というのは建築史でも・・近代以前まではみんな結構やっているんですけど、近代以降はあんまり無いんですよね。最近は神社の研究をやる人が少し出てきたので、若干状況は変わったんですけど、95年の段階ではまだ神社をやる・・興味を持つていう人はほとんど居なかったんですけども。
 
 なんで無いか言うとですね、だいたい建築の分野から言うと新宗教の建築というのは、キッチュで何かいかがわしいモノであって、デザインがとても格好いいとはいえないとういうようなネガティブな理由。あと有名建築家が作ったモノもあまり無いだろうということで、ズーと無視されて来たんだけども。

 逆に靖国神社だとか明治神宮なんていうのは当時の有名な建築家が関わって、戦前の建築界は、靖国神社とか明治神宮の建物は「素晴らしい・素晴らしい」って言っていたんですよね。

 この2つの建物は明治以降に出来た建物なんですけど・・つまり同時代の宗教建築を素晴らしいって言っていたんです。
 
ところが戦後はほとんど宗教建築のことはみんな言わなくなった。それは戦前逆に、褒めすぎた。というか・・かなり愛国心を感じるような言い方でね・・靖国神社の建物なんかを、えらい褒めていた。

 その反動で誰も言わなくなっちゃったんですよね。でー・・誰も言わないのもおかしいと思うし、かといって異常に褒めるっていうのもおかしいと思う。その中間をなんとか・・いろいろものを調べて、考えようかなと思って始めました。

 今日 あのー 3つぐらいに分かれるんです。まず「天理教の建築と都市の話」をします。その次に「大本教と金光教の話」をして、最後にその他「幾つかの教団について」簡単に触れようと思います。
 で・・天理教の成り立ちから始めます

◎ スライド3

                 

天理教というのは1838年に、だから今から170年ぐらい前に出来た宗教です。今の天理市に中山みきというおばあちゃんが住んでいてですね。中山みきというおばあちゃんが突然神懸かりになってですね・・天理王命(てんりおうのみこと)という神様を信じてるんですが、天理王命の神様が中山みきにのりうつってですね、彼女を媒体として神の言葉を伝えるという状態になってですね、始まったのが天理教の始まりです

          

 一番上のやつは中山みきが嫁入り当時の屋敷で、そこそこ大きな地方屋敷に嫁いで、この時点では彼女は普通の主婦。

           

 真ん中の図を見るとですね、突然建物が減ってますよね。真ん中ごそっと抜けてるンですけど。これは宗教始めた段階で、最初中山みきは何をやったかというとですね。まず屋敷を壊せってことを言ったんですよね。天理教をはじめてですね・・自分の家をあそこを壊せと、どんどん取り払っていってですね。ほとんど真ん中のあたりが無くなって。

で、壊したり家のある財産をどんどん貧しい人にあげていって、ですね。自ら貧に落ちきる。貧乏な状態に、どん底まで落ちよということをやります。
 だから一番最初の段階では反建築的な破壊行為をドンドン自分の中でやっていってたわけですよね。

           

 一番下の図というのはだいぶ経っていたですね・・50年ぐらい経っていてですね。宗教はじまって。この段階では真ん中の下の所に、最初の宗教施設が出来るンですけども。えーと、甘露台っていうのがあってですね・・指してもらえる・・分かる

 五十嵐夫人立ち上がり「・・・これ・・」学生が二人入ってくる・・五十嵐夫人甘露台を指さす

これが甘露台なんですけども、最初天理教というのは今言った反建築的であったし、だいたい教義もなくって、何をしていたかというと、病気なおしをしていた。もう一つは安産の守り神として、中山みきというおばあちゃんの所へ行くと「安産が出来るらしい」ということで活動していたですね。

  いわゆる近代医学とはぜんぜん別の医療行為をやっていたわけです。

 はじめて天理教のなかで教義を作るのが、1868年ぐらいですから・・教団が発足して30年めにしてようやく教義らしいものを作ります。逆にいうと最初の30年間は全く教義がなくて病気直しだけしてた・・教団なんですね。

 丁度明治が始まったときに、いろいろ・・今度は「おふでさき」といって自動筆記をするんですよ。中山みきが神懸かりな状態になって、手が自然に動いて神様の言葉を伝えるっていうのを・・68ねん69年頃から始めるんですよね。

 その頃にですね、天理教の神話を作っていくんです。重要なものの一つに「世界の全人類は地場」・・地面の地に場所の場って書くんです。
 「地場という場所から世界の全人類がはじまったった」という神話を・・確立します。その地場というのが何処にあるかというのは最初明らかにされないんですけども・・。70年代ぐらいに・・「明日は地場が分かる日だ」といって、教祖の住んでいるあそこの庭を・・屋敷のあそこの庭をぐるぐる教祖が歩いて、足がぴたっと止まる場所があった。

 それがさっき指さしてもらった場所なんですけども。アノ場所が天理教では、いちおう地場であって、その世界の人類がはじまった。逆にいうと・・もともと世界の人類が誕生したからこそ、天理教神話の中では、何万年という節目の年に中山みきという神様が再び降りてきたという、そういう理屈になっているわけです。
 
で、そのあと教祖が足がぴたっと止まった。信者も今度は目隠しをさせて庭を歩かせたらやっぱり、同じ所に止まったという話になっていてですね。アノ場所が地場になるわけですね。

◎ スライド4

              

右上に柱の様なものが見えると思うんですが。これがもう一つ重要な・・天理教の・・うんー・・構築物で・・「甘露台」っていうのがあって。甘い露を受ける台なんですけど。なにかというとですね、天理教がなんていうのかな・・。
 天理教の教えが広まってですね・・救済が成就したらっていうのかな・・したらですね・・「人類はみんな長生きする」っていうことを言っているんですよね。

 で、天理教が考えるその祝福の日・だから・・彼らはハルマゲドンみたいなことは考えない。その祝福の日が訪れる時が・「・空から甘露が降ってきて、それを受け止めてみんなが長生きできるようになる」ということを言っているんです。

 それで・・さっき言った地場ていう世界の誕生の場所に、この柱を立てる、つていうことを中山みきが言い出してですね、あの柱を、実際に明治時代のはじめに作ったりします。

◎ スライド5

               

 これは大正時代に作った神殿なんですが、もうとっくに教祖中山みきは亡くなっています。亡くなっていてですね、もう二代目の教祖になていてですね。

 その頃になるとだいぶ信者の数が二桁三桁増えていて、信者が100人ぐらいでやっているときは、教祖の家を増改築して何とかそこに信者を詰め込むことが出来たんですけども、教祖が亡くなった頃にはもー・・何万人というオーダーで信者が居たので、お祭りをやるんですよね。

 大きな祭りを時々やるんです。その時何万人も来たときに当然住宅を増改装したとこにはいれませんから、大きい建物がつくらなきゃいけないということが、建築のプログラムとして発生するんです。まーそのときに大きな節目で作ったのがこの大正普請ていうんですけども、この建物です

 あの四角の所指さしてくれる・・あの平面図で・・

        夫人立ち上がり スライド画面に近づく
f これ ・・画面中央上部 四角 を指さす

 これね・・あそこの所が地場。天理教の中心だって言ったとこで、そこに甘露台という柱が立っていて、ですね。手前が礼拝所なんですよね。

 で、一寸おかしいのはその四角い所の奥にですね・・、神道の形式だから、神社形式のお宮が置いていてですね。大正時代に作られた神殿は二つの礼拝対象が共存していた。
 
 天理教の考える神様のための柱があると同時に・・なんていうのかな・・いわゆる神道形式のお宮が同時に存在していました。これはですね、当時の宗教というのは国の管理が厳しくてってですね・・ようするに・・国家神道が有ってですね・・そのぅー・・一応いわゆる神社・・「普通の神道を信じているぞ」というのがポーズであったとしても示さなきゃいけない。というのがこの平面に現れていてですね、だから・・この時に作ったものは実は、やや曖昧な性格を持っているんですよね

◎ スライド6

           

このころ大正時代のお祭りの様子の絵なんですけど、右上の図を見ると、四角い窪みが見えると思います。あの四角い窪みにホントは甘露台という柱が立って居るんですけども、天理教のなかでは甘露台っていうのは、非常に神聖な柱ですから、絵にしないんですよね。

 イスラム教でも、偶像崇拝をしないみたい。キリスト教だって最初は聖なるモノを見せないとか、というのをやるんです。

 天理教でも最も聖なるモノは絵にしないっていうのがあってですね、あそこでも本来甘露台が有ったと思うんですけども、描かれていません。

 あと当時に天理教の弾圧でいうと、男女が一緒に踊るんですよね。柱の周りで、こー踊るんですよね。それがまー、非常にいやらしいっていうことで、すごいマスコミとかが・・騒ぎ立てたりしてですね。それでまー、天理教もしばらくの間男女で踊るのは止めて、男だけが踊る周りで儀式をやるとか、いろいろ変更しています。
 あともう一つ、彼らの神話のなかのですね・・日本の国生み神話みたいなものと、明らかに矛盾するものに関しては、封印してしまってですね・・一応ないことにするんですよね・・

 それはまー教団が存続するためには、明らかに国家神道と反するようなモノをそのままやっているとですね、何万人も抱えた教団としては、もー存続できないというこもあってですね、かなり路線が変わってきてんですよね。

◎ スライド7




大正時代に出来た面白い建築のディテールなんですが、屋根の上の所に鬼瓦があるんですが、あの鬼瓦の上の所に、ばってんが見えますよね。

 あのばってんは千木って言ってですね。ここの部屋の神棚にほとんど伊勢神宮の似た形式のお宮があるんです・あそこにも千木っていうのが、あるんです。切り妻の屋根からはみ出てですね、ばってんで・・こう交わる形が神棚にもあるんです。あのばってんの形を、実はあの鬼瓦の頭のくっつけたのがこのディテールになっています。

 この千木っていうのは日本建築史をやっていると分かるんですが、日本の神社の建築に特有の形なんですよね。なんでこんなモノを付けたかというと、やっぱりさっきの問題と関係していて、天理教というのは新しい宗教として出てきたけれど、基本的には同じ系列に有るんだということを、建築的なディテールで表現しようと・・、おそらくしたから、こういうものが出来たというふうに・・ハッキリとした文章はないんですけども、おそらく大正時代にこれが出て来た というのはそう推測される

 実際このころに、国の公認を得てですね、教派神道、国家神道一つの系列に組み込んでもらえルンですよね。

 それまで認めてもらうまで大変で、例えば日清日露戦争があったときも、まだ天理教は公認されていなかったんで・・。戦争にはお金がかかりますから、戦争にはお金がかかりますから、天理教から非常に莫大なお金を寄付したりするんですね、国に。 でそうすることによって日本国に対する忠誠心を示して、いろいろ努力するんですけども。そうやって認められていく。
 ちなみに今アメリカのモルモン教なんかも、アメリカが戦争したりするときは、お金を出したり兵隊送ったりしてですね、国への忠誠心を示す。


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